プロフィール

●ご挨拶

初めまして。

ハッピーフィーリングカウンセラーの安 晃(やす あきら)と申します。

皆さんは今の人生を楽しんで生きていらっしゃいますか?

自分の将来・お金・人間関係等々さまざまなストレスがたまり続ける社会で

日々辛いと思いながら生活していらっしゃる方もいるのではないでしょうか?

 

私は昔

「周りのみんなは出来ているのに、自分だけ出来ていないのは恥ずかしい」

「周りは普通に出来ているのに、なぜか自分だけ苦しんでいるのは自分のせい」

「こんな事程度も出来ないなんて、なんてダメなんだろう

と自分にダメ出しをしながら生活していました。

 

今にして思えばその行為は

周りを気にして会社の課題の解決や周りの人と同じだけのことをやれるようになりたいなどと考えて、

自分の心には寄り添えていない偽りの幸せを求めてもがいている状態でした。

 

それがあるきっかけでカウンセリングを受けはじめ、

何度も何度も浮き沈みをしながらそれでも諦めずに自分の心と対話をし続けました。

そうすることによって周りを気にしながらも自分の心をすぐそばに感じて、

そのままの自分で進んでいくことが出来る本物の幸せを感じられるようになりました。

 

まずは、そのような考えに至った私のプロフィールをご確認いただき、

どのような人物か知っていただければと思います。

 

≪ 目次 ≫
・恐怖を感じた先生との学校生活と、借金による父母不仲の息苦しい小学生時代
・母の逝去と、父への不信感
・収入を得るも搾取される大学時代
・就職先で環境になじめず、自分を責める
・通勤電車に閉じ込められ腹痛、パニック障害で一人苦しむ
・パニック障害の打ち明け
・怒りが収まらない事件発生
・自分を抑え、怒りを我慢し続ける日々
・我慢が限界に達し、無気力・適応障害へ
・心理療法との出会い
・一時の回復
・転職、そして再びの転落
・適応障害再発!
・再カウンセリングでの気づき
・回復の転換期
・今現在と未来への想い

 

●恐怖を感じた先生との学校生活と、借金による父母不仲の息苦しい小学生時代

小学校低学年時、気性の激しい先生が担任となり、

はたかれたり突き飛ばされたりされるような学校生活でした。

 

その生活で子供ながらに恐怖を感じ、怒られないしようと

目立たないように世間一般的に良い子のような生活をしていました。

 

今思えばそのころに自分の想いを我慢して

周りの目を気にするという姿勢が根付いたのかもしれません。

 

 

小学校中学年辺りになった辺りから、父と母の仲が険悪になり始めました。

原因は隠れて父が借金をしていたためであり、母の貯金で借金を返済していたようでした。

 

しかし、そのころは借金についてよくわからなかったため、

ただ父と母がケンカしていると思い嫌な気分になり、

見ないふりをしようとしていて自分の部屋に閉じこもっていました。

 

そのしばらく後に母が癌になり、入退院を繰り返すようになりました。

 

●母の逝去と、父への不信感

中学時代入学前、引越を行い中学生は周りに友人がいない状態からのスタートとなりました。

 

周りは小学校時代の友人がおり初めからある程度のグループができてしまっていたため、

その中に入っていけずなじめず、元々内向的であった性格がさらに内向的になっていきました。

母と父との仲は相変わらず悪く自分も状況を少しずつ理解していったため、

父と距離を置くようになっていきました。

 

高校時代、入退院を繰り返していた母が逝去。

その際に母が父に対してどういう思いをしていたか母方の祖母や叔母に聞き、父への不信感が出始めました。

 

●収入を得るも搾取される大学時代

大学時代からアルバイトをはじめ、自分で収入を稼ぎ始めました。

そのころから表に上がってこなかった父の借金の問題が再び表面化しだし、

家に電話がかかってきたりするようになりました。

 

そして、給料を取られたりし始め学生ローンやローンの保証人になるように

ローン会社に連れていかれたこともありました。

 

大学まで行かせてもらっていましたし、

お金を出すことについては抵抗があまりありませんでしたが、

何が原因で借金を作ったのかを何度聞いてもはぐらかすため、

特に父を嫌うようになりました。

 

●就職先で環境になじめず、自分を責める

大学卒業後、IT系の会社に入社。入社してすぐに家を出て、生活し始めました。

先輩方に気にかけていただけ、残業はかなりたくさんあったが残業代もいただけていたし、

会社に対しての不満は特にありませんでした。

 

しかし、技術職のため日々勉強が必要であるものの、

家ではゲームをしたりインターネットを見たりで勉強の必要性は感じつつもあまりができていませんでした。

 

そのことに対して自分を責めたりといった自責の念があったりもしました。

日々の業務としては派遣のようなイメージで数か月~数年請負先の会社で仕事をし、

ある程度そのプロジェクトが落ち着いてきたらまた別の現場に行くというスタイルでしたが、

当時は話すことが得意ではなかったため、

新しい勤務地に配属するたびに毎回緊張して現場に臨んでいました。

 

また、転職を考えたことは何回もあったのですが、

学生時代の父の借金問題が頭をちらつき、

十分なお金もない状態で職業なんて選んでいられない、

お金が無くなるのが怖いと考えていて、この会社で頑張るしかないと思い込んでいました

 

●通勤電車に閉じ込められ腹痛、パニック障害で一人苦しむ

ある日、いつものように通勤していたところ電車が緊急停止しました。

車内アナウンスを聞くと線路沿線の建物で火災が発生したらしく一時停止をしたとのこと。

 

東京の通勤時間帯であるため車内はかなり混雑しており強い圧迫がありました。

初めは数分程度で動くだろうと考えていましたが、何分経っても動かず

圧迫感と蒸し暑さ、いつまで止まっているのだろうという不安から

次第に腹痛や息苦しさが襲ってきました。

手すりにつかまりお腹を押さえながら、ひたすら苦しい30分を耐え続けました。

その後何とか電車が動き出し、次の駅ですぐに下車してトイレに駆け込み事なきを得ましたが、

もともとキライであった混雑した電車を完全に忌避するようになってしまいました。

 

その事件の後、少し人より弱いかもなー程度であったお腹の具合を気にするようになり、

調子を崩すことが多くなりました。

また、電車に乗っていると過呼吸になるパニック発作でこのまま死んでしまうのではないかと考え

途中駅で下車してしまうことが何回もありました。

そんな症状が出てから初めてインターネットで「パニック障害」を知り、それに該当するであろうと認識しました。

 

症状を認識した後は早朝の電車が空いている時間帯に乗るなど徹底して満員電車を避ける対策をしました。

そんなことがあり心療内科に受診した方が良いとは感じつつも、

周りに人や同僚はみんな辛そうでもみんな出社しているのに自分だけ普通に電車に乗れないことは恥ずかしいと思い、

一人無理をして通勤をするということを一年ほど続けていました。

 

●パニック障害の打ち明け


ところが、別現場に異動になった際に満員電車に乗らざる負えなくなり、

そこでパニック発作が頻発するようになり途中下車をするという遅刻を一週間近く繰り返しました。

 

そうなったことで、恥ずかしいなどと言っていられる状態でないことを認識し、

これ以上一人で解決するのは無理と判断。

心療内科を受診し、そこで正式に医師からパニック障害の診断を受けました。

その診断結果を現場の上司に報告し、勤務時間の変更を直訴しました。

 

その結果、無事にOKをもらえシフト勤務で出社することとなりました。

そのことによって

自分で解決できないと判断したことは周りに迷惑をかけてしまっても早く相談した方がよい、

案外受け入れてもらえることもあるということを学びました。

パニック障害については1年ほど心療内科に通い、

薬による治療とシフト勤務による通勤ラッシュ時間帯を避けたことで

パニック発作が起こることがなく、お腹の具合もそこまで気になることが無くなり、

一旦は完治という診断を受けて通院もなくなっていきました。

 

●怒りが収まらない事件発生

そんなのような状態で数年仕事を続けていた際に、

勤務中仕事の作業工程を実施していなかった後輩に対して

「この作業したらこっちに入力をしないといけないよ」と言ったところ

「は?何でですか?」とあからさまに面倒そうに舌打ちをして反応されました。

 

はじめは驚きの感情が強く

「今忙しいから追い込まれているのかな~」とか

「自分の言い方が悪かったのかな~」等軽く考えて気にしないようにしていましたが、

 

毎日その人と顔を合わせることでその時の場面がよみがえり

「なんでそんな態度取られないとといけないんだ」と自分でその時の状況を増大化していき、

徐々に怒りの感情で頭がいっぱいになっていきました

 

●自分を抑え、怒りを我慢し続ける日々


自分でも気にしすぎであることは自覚していたため、

あまり気にしないようにしようと思えば思うほど悪循環にはまってしまい、

忘れられず怒りの感情が強くなっていきました。

しかし、仕事上で怒りの感情をもっていることは良くないと考えていたため

「そんなことで怒っているなんてだめだ。怒らないで仕事に集中しろ」と自分に命令し

無理やり仕事をするようにしていましたが数か月経過しても改善されず、

期間中ずっと怒りっぱなしでした。

 

数か月間常時怒りっぱなしであったため疲労感まで強く出るようになり

「もうこれ以上は耐えられない」というところまでイライラし、

ついに上司に対して異動願いを直訴しました。

 

しかし、今回の結果は前回のように希望通りとはいかず、

もう少し我慢してほしいという回答でした。

その際に自分が思ったことは

「会社としては前回のような病気でもなく、今回は個人的な感情なのでそうなっても仕方ないな。

そうなるとやっぱり悪いのは自分なのだ」と考え、

さらに自分で自分を追い詰めていきました。

 

●我慢が限界に達し、無気力・適応障害へ

上司への異動願いが却下されたことで自分の感情が耐えられなくなったのか

怒りすら湧き出ることが少なくなってしまい、無気力・無感情状態になってしまいました。

 

この時期に考えていたこと、感じていたことは今でもあまり思い出せないのですが、

ただひたすら言われたことをやっているだけのような状態で、

「もうどうにもならないので、ただやらなきゃいけないことだけやってればいいや」

というのような完全な受け身状態で新しいことなど何もできず、

家と職場を往復していた気がします。

 

さらに時間が経過して、念願の異動になりましたが、

ずっと過去の気持ちを忘れられず引きずったままのどんよりとした気持ちをまとい続けていました。

「自分何のために生きてるんだろう」とか「もう今死んでしまってもいいかな」みたいなことも

考え続けてながらお金のためだけに仕事を続けました。

さらにこの異動した時期にパニック障害が再発し始め、心療内科にも再び通うようになりました。

その際に上記の症状についても相談し、適応障害の診断も受けました。

 

●心理療法との出会い

そんな倦怠感を感じ続けながら仕事をしていた日々にある心理療法の講義があることを知りました。

参加まで散々迷いましたが

「ここで何もやらないとこのまま生きているだけのつまらない人生になってしまう。そんなのは嫌だ!」

と心からの声を感じたため、本格的に心理療法を学び始めることにしました。

 

ところが始めてみて早々に周りの受講者との違いを感じてしまい、

「やっぱり自分には講義なんか受け続けられないのか」とか「向いてないんじゃないか」とか

ネガティブな感情を強く感じていきました。

 

また、この時期にHSPの本を発見して

自分もHSPなのではないかなどいろいろ思い悩んでいきました。

その中で一対複数であったことが原因ではないかと考えて、

さらに一対一でのカウンセリングを受講し、

どういった心構えで心理療法を学ぶべきかの秘訣を教えていただきました。

 

その秘訣を意識しながら再度元の心理療法を学びに通いました。

他の方との比較がなくなるわけではありませんが、

気持ちが軽くなり続けてもいいのかなと感じ始めてきました。

 

そう感じ始めることにより徐々に受講内容を飲み込み様々なことを教えていただき、

未来のことを重要視して考えるようになっていきました。

 

●一時的な回復

未来のことをポジティブに考えるようになってから、

いろいろなことをやりたいと思い始めるようになりました。

そのように思い始めたら現在の会社に居続けていたら

レベルアップもできないし転職した方が良いなと考えるようになりました。

今考えると散々悩みに悩んだ会社に居続けたくなかったという気持ちも

あったと思います。

 

しかし一時的な期間であったにせよ、

悩んでいて引きこもっている時とは打って変わって

お金を払ってまでセミナーを受けたり、

知識を広げることが出来たりすることが出来ていました。

何か月か活動をして無事に転職先を見つけることができ、

その時点でカウンセリングも一旦は終了となりました。

●転職、そして再びの転落

そうして転職したのですが、その先で思い知ったのはひたすらに自分の力不足だけでした。

「給料分の仕事をしろ!!」

と大声で叱責されたことは今でも忘れられません。

 

やらなきゃいけないと自分で考えたことはいろいろ試してみるのですが、

その会社のレベルでは全く納得のいくものではなかったようで

質問するたびに怒られていました。

その時は職場で身体や声が震えて、自分の力不足が情けなくて怖くてたまりませんでした。

 

震えていることを転職先の周りから指摘されて心療内科に行き、

そこで再び適応障害を診断されました。

そして、そのまま職場復帰は出来ず、会社は1年足らずで辞めてしまいました。

 

●適応障害の再発!

再度適応障害となった頃は体が震えだしたり、食欲が出ず何日も食べなかったり

自然と涙が出てきたり、1日2時間程度で目が覚めてしまうようになったりと

体にまでいろいろな影響が出ていました。

 

そんな時に救いであったのが、

一緒にカウンセリングの講義を受けていた仲間の存在でした。

カウンセリングを受けるような人達でしたから、

人一倍温かく、傷ついた状態でも受けいれて下さる方たちばかりで、

すごく救われました。

 

そんな環境にいて周りの人たちと自分を比較して

そもそも自分は本当の意味で心理療法を学べていなかったのかもしれない」という思いが強く

出来るレベルまでにならないといけない、

みんなと同じようなレベルになりたいと思う気持ちもあり、

もう一度心理療法を学び直しました。

 

しかし、笑顔で周りの環境に良い影響を与えている人たちに囲まれていたため、

自分が身についていない何かがあったのかもしれないと思い、もう一度学び直す決心をしました。

 

●再カウンセリングでの気づき

 

仲間がやっていたからもう一度やってみようと思い再度カウンセリングに通い始めましたが、

正直なところ

「一度心理療法を学んだけれど余計にひどい目にあったのだから

これ以上やったって同じだろう」

という気持ちもゼロではありませんでした。

 

そんな気持ちがあったせいかはわかりませんが、

1ヶ月、2ヵ月と続けているうちに出来ていない自分が情けなくなって

どんどん自信がなくなっていきました。

そうして

「他の人はどんどん先に行っているのに自分は・・・」とか

「自分なんかがやっても無理なんじゃないか」と考え始め、

悔しくて情けなくて、一人で泣いてしまいました。

 

しかし、その一人で泣くまで追い詰められてしまった時に

自分の中の心に閉まっていたあるもの発見しました。

その発見によって自分の心と向き合うことが出来るようになっていき、

自分に対する絶大なる安心感を持てるようになりました。

 

●回復の転換期

この瞬間は今の自分への転換期でした。

一度目の学びで得られなかった最大の違いはこの安心感の有無であったと今では言い切れます。

 

その安心感はその時から今でもずっと持っており、毎日確認をするようにしています。

安心感を持つようになった結果、心に余裕が生まれ気持ちが少しずつ落ち着いていきました。

 

さらに、心理療法で学んだことが本当の意味で理解することが出来て、

落ち着きを感じることによって幸せも感じ取られるようになりました。

そんな中で、適応障害も完治しました。

 

そんな中で過ごしているうちに自分の中で

「私は幸いにも仲間がいて相談もできたから立ち直れたけれども、

一度失敗して立ち直れないというような状態にある人は

何も信じられず辛いだろうな」

という想いが出てきました。

 

その想いが原動力になり、

カウンセリングを受けて失敗もしてきた私だからこそ

伝えられる事があるという考え方でカウンセラーへの道を志し始めました。

 

●今現在と未来への想い

この様な経験を経て、私は現在カウンセラーとしての活動を行っています。

私が今現在このような活動が出来るのは運が良かったためだと思っています。

 

しかし、世の中には環境に恵まれず、

苦しい状況にある方も少なからずいらっしゃいます。

そんな方を是非救いたいと思って活動をしております。

そして、私が適応障害を再発してしまったからこそ、

そのような苦しみを味わってほしくないと思い、

再発の可能性が出来るだけ低くなるような

カウンセリングを目指して日々活動をしています。

 

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